一生黒歴史

俳優オタクのメモ書きです。

大野智さんを許せないと言った友達と廣瀬大介さんを許せなかった私

 

いつだったか覚えてないけどライオンキングの映画を観に行った日だったから丁度半年前くらいだと思う。友達がポツリといった一言を私は忘れることができていない。

 

大事な友達が、いつからかは知らないけどそれくらい当たり前に二宮和也さんのファンで、活動休止の発表があった日も一緒にご飯の約束をしていた。彼女は理性的で余り自分の気持ちに対して饒舌ではないから、その日の彼女の目の色とか、声の色みたいな、そういうことでしか心情を把握することはできないけど、口では「おもったより平気」と言っていたし、実際思ったよりは平気そうだった。というか現実に適応するのが速かったようにみえた。全然活動休止を恨んだり悪く思ったりしていなかった。

 

そして昨年の夏、相葉雅紀さんが活動休止についてライブのMCで涙をこぼした翌日の出来事だった。思えば活休の発表があった日と同じ有楽町駅だったな、あの辺を歩きながら彼女が不意に言った言葉

「それでも私は大野くんを許せないな」

この言葉が私の胸に突き刺さった。わたしにも「どうしても許せない、でも自担にとってはとても大切な人」がいたから。

この言葉を聞いたら普通はなんで?とか、そういうことは言わない方がいいとか、それは嵐の真のファンじゃないみたいな、そういう言葉をかけるのが世の中だと思う。

でも私は痛いほど気持ちが分かるし、声を大にしてTwitterに呟くのでもなく友人の前でポツリと言ったこの言葉に対して、許さないではなく許せないという言葉の辛さに、彼女は立派にファンという立場から真摯に嵐のことを想っていると思ったので、ただ泣きそうになりながら彼女の手を握ることしかできなかった。泣いちゃったような気もするけどあんまり覚えてない。

 

これは私が短いなりに人生を過ごしてぼんやりと思うことだけれども、人の人生にはどうしても思うように噛み合わないこと、気持ちと現実がカチッとはまらないことがあると思う。それが自分が1番大切にしているタレントの身に起こる時、それは大抵誰かに起因していることが多いように思う。それはその誰かが悪いわけでは決してない。どうしようもない。

 

嵐の場合は大野智さんが休みたいと思った、それを受けてみんなで嵐を休もうと決めたこと。赤澤燈さんの場合はメサイアシリーズを2人で真ん中に立って卒業するのが当たり前だと思っていた、けど廣瀬大介さんの俳優から声優への転向、きっとそれに伴ういろんなことで出演が叶わず、結果的に赤澤さんが大変な思いをしたこと。(ジャニオタ用に訳すと大切なシンメの公演を片方欠席で1人で座長を務めたということです)

 

私は今年の桜が咲くまでの3年と少し、言葉にすると短い時間だけど、廣瀬大介さんを許せなかった。

 

決して、廣瀬さんを嫌いになったりとか、悪く思ったりとか、赤澤さんに近づくなって思うわけじゃない。決してそれは違う。そんなこと微塵もわたしにもこの感情にも関係なくて、むしろ2人にはほんと幸せに居ていただくことがわたしの幸せで、恨みとか怒りとは全く別の感情だった。許せないからそれを発信して廣瀬さんを傷つけようとか、そういう方向性の「許せない」じゃなかった。廣瀬さんの悠里淮斗がわたしは本当に大好きで、愛してる(?)のは間違いない。実際問題私という立場で許す許さないの問題ではないけれど、許せないという言葉がピッタリとはまるような気持ちだった。分かりやすくいうとただ、「うまく笑えなかった」ということのように思う。

廣瀬さんが出られなかったことは廣瀬さんの所為ではない。公演期間が違ったら出れていたかもしれないし、きっと出られないことで悔しかったのは、辛い思いをしたのは廣瀬さんもなんだろうと思う。観客でしかない私には何も知りようのない状況がたくさんあったのかもしれない。

赤澤さんが廣瀬さんをすごく大好きなこともすごく分かっていて、悪く思ったりとか1ミリもない、許す許さないではなく、むしろ廣瀬さんが赤澤さんを救ったことは間違いない。それも観ていた。

 

でも結果は「救った」けれど、途中の辛く、苦しい場面を毎日客席から目の当たりにしていた。後日共演者の方から語られる公演中の赤澤さんは壮絶だった。言葉にしたくない。廣瀬さんはメサイアには出られなかったけどヘタリアには出られた、間違いなくあの時赤澤さんは苦しんでいた、そんなことがどうしても渦巻いてしまって、赤澤さんがどんなに廣瀬さんを心の支柱に置いていても、わたしは赤澤さんのファンという立場に置かれ、心のどこかで廣瀬さんを許すことができなかった、というかその事を思うとうまく笑えなかった。

 

友人もそんな気持ちだったのだと思う。

 

相葉くんが、4人が大野くんをどう思っているかじゃなく、ファンとして、活動休止に対して怒りを全く感じていなくても、その相葉くんの涙に、そのような気持ちが湧いたのだと思う。

 

私がこれを言葉にしたのは端的にいうと、「許せない」ということが、どうでも良くなったから。私はもうどんなふうにも思ってないと気づいた。

 

廣瀬さんとの写真や過ごしている時間全てが当たり前に安堵に満ちているように見受けられて、それは元からずっとなんだけども、わたしもそれを見るのがずっと大好きで、大好きだった。

握手会で、メサイアが好きな私に(前後の会話的にマジで後々考えると多分そんなような気がしてきた)廣瀬さんとの食事のことを教えてくれた。なんとなく同厨には共有せず家に持ち帰った。赤澤さんにとってとても大切なことを教えてもらったような気持ちだった。

 

なんか赤澤さんに笑っていて欲しいから、赤澤さんが「許せない」ということができないことでもファンという外野だからこそ世論的には悪となったとしてもそのように思った。

改めて言葉にするとほんと許せないなんて可笑しな話だけど、本当、そうだった。これは赤澤さんへの手紙にも全く書いていない、マジでそういうことじゃない、本人たちとは全く関係ないところにあるぼんやりとした私の気持ちだった。

 

でも今、なんとなくだけど赤澤さんが笑顔でいれてると思う。昨年夏のエーステで赤澤さんがアイコンを変えたこともそういうことなのかもしれない。

もう赤澤さんが笑顔で過ごせていたら、なんでもいい、なんでもいいなって、心からそう思っているということに、今年の桜を見て初めて気がついた。

気がついたのが今年なだけで、きっと最初からずっとそうだったんだと思う。でもどうしても強烈に辛い思いをした赤澤さんのことを記憶していて、どうしても離れなかったのが、時間をかけて、今の笑顔が勝ったのかもしれない。

その後廣瀬さんと赤澤さんの幸せな動画が上がっててほんとハッピーな気持ち。私心の声盗聴してるのかな(は?)

 

だから、大野智さんを許せなかった友達もいつか、嵐が笑っていたらなんでもいいって、そういう終着点があるってなるんじゃないかな、と思った。もうなってんのかも。

大好きな人の大好きな人を「許せない」と思ってしまう罪悪感や、友達に打ちあげながらや、ふとした時にそのことを思って涙を流した3年弱は忘れられない。私の心のあまりにも根底にあり続けた。

それでもいつか友達も嵐の笑顔を見てなんでもいいなーって、それくらい幸せな気持ちになれたらいいなって思った。

 

このタイミングで不特定多数の見れる文字として残すつもりのなかったこの出来事をブログとして更新したのは、もしかしたら岩本照さんを許せないと思ってしまう人が居るかもしれない。少し私の場合とは出来事の気質が全く持ってちがうけど、でもその気持ちを私は否定したくないな。と思ったから。許せないからどうこうってわけじゃなくてもそう思ってしまうこと、でもそれに対してわたしにとっては大好きなタレントの笑顔と幸せが全部だったということを、どうしても言いたかった。